December 29, 2023

また1年が経ちました。

 SNSのおかげで、今年も世界中に散らばった友人知人からお誕生日のお祝いメッセージをいただけました。ありがとうございました。

また1年が経ちました。


2023年、個人的には慌ただしい1年でした。

春、体調崩して夜中に気を失って倒れ、歯を折るやら打撲やら縫合を要する裂傷やら。その数日後に久しぶりの日本で、治療の傍ら、東京、福岡、高知。日本から戻ったらまた片道4便を乗り継いでジュネーブ出張。夏には反対に大物出張者の受け入れ。秋、不安定な航空便に悩まされながらの海外から海外への引越し。その合間に東京にちょっと寄って所用を済ませたり。そして、新しい街での生活の立ち上げ。それがようやく落ち着いてきたと思ったら、もう年末、誕生日です。早い早い。

期待され、お声がかかり、会おうと言ってくれる人がいて、仕事があるのはありがたいことです。そうやって慌ただしくしているうちが花なのかと思ったりもしますが、いつまでこんな生活が続けられるのかと、ふと振り返ることもあり、鏡を見るとずいぶん老けた自分がいます。

特に体力の衰えを感じているわけでもなく、なんならベンチプレスは前よりも重量上がるくらいなんですが、僕によく似た骨格の母方の叔父2人はいずれも50代の時に病が見つかって日本人男性の平均よりずいぶん早く亡くなり、母も今の日本では長寿とはいえない年齢で他界したことが頭をよぎります。

まあいい。

明日は明日。目の前にある選択肢、世の中にとって、自分にとって、よりマシな方を選びながら、前に進むのみです。

みなさま、よいお年を!

September 03, 2023

離島を散策。 〜レンゲル島〜

 週末、ポンペイ本島からボートで15分ほどの離島、レンゲル(Lenger)島を散策してきました。



旧日本軍が整備した飛行機の離着陸場

おそらくは駐屯地のゲートの門柱

砲台の一部分かなあ。旋回する構造なのは窺える。

山頂の司令部か。

トンネルや塹壕もあちこちに。

発電機と思われる。




貯水設備でしょう

飴細工のような光沢の植物。

車両?

よく分からない大きな鉄部品が散在。

ポンペイ本島を望む。

オイルタンクらしい。

隣のサプティク(Sapwtik)島。

精霊の木。夕方にこの木の洞に入ると帰って来れなくなるという言い伝え。トトロいる?



 第二次世界大戦が終わるまで、旧日本軍が整備していた拠点のひとつです。日本から3000km以上離れた太平洋の島々で、戦前の日本は数々の軍事・経済の活動を展開していました。

 レンゲル島は地元一族の私有地。1990年代末から2000年代初頭までは簡単な観光施設もあったようですが、今やそれも朽ちていました。旧日本軍の遺物も草木や土砂に埋もれてもはや近付けないところ、何があったか分からなくなっているところもあって。

 「夏草や兵どもが夢の跡」と言うには繁茂しすぎる夏草です。

撮影:iPhone12 mini
Special Thanx : Kanji Nonbe

July 08, 2023

Joeのはなし。

 南の小さな島にも髪を切る店は何軒かあって。

どの店も当然、日本の美容室のようなセンスやテクニックは期待できないし、期待もしてないいだけど、とはいえ周りから「あそこはマシだよ」と言われた店で散髪してます。

茶色の長髪で、おばさんのようなおじさんのJoeがやっている店。ハサミは滅多に使わず、バリカンだけで器用にカットしてくれます。

いつも割と混んでる店だけど、ある土曜日の朝、早めに行ったら僕がその日最初の客で、一人。

Joeの英語と僕の英語はなんだかすごいズレててよく通じないんだけど、僕が日本人だと分かると、問わず語りにJoeの話をしてくれました。ときどき、なよっとした笑いを挟んで、ときどき、僕の肩を触りながら。

1989年からヘアーカットの仕事を始めた。
この島に来て12年になる。
若い頃、日本に行ったことがある。日本では週末にダンスの練習をしていたわ。
日本で稼いだ友達が何人もいる。フィリピンに戻ってジャグジー付きの大きなプールがある家や、コンドミニアムのビルを建てた。そこによく誘われたのよ。
日本は自分みたいなゲイでも問題なかった。性転換して豊胸手術してダンサーやって稼いだ友達もいる。私はそうしなかったけど。
あんな札束を見たのは、あのときだけだったわ。
マニラは日本と同じ、なんでもある大きな街。この島では稼げない。でも、いいの。使うところもないから。ここにマニラみたいなショッピングモールはないでしょ。服も靴も、中国製の売ってるものを買うだけ。
いつか、また日本に行くとき、あなた手伝ってくれる?

* * *

そうか、日本でフィピンパブが流行って、フィリピン人ダンサーがたくさんいた頃のはなしで、たぶんJoeは、ルビー・モレノと同じくらいの世代。

Joeはいつもより時間をかけて、僕の髪はいつもよりだいぶ短くなった。


July 02, 2023

人口の少ない島で暮らす。

 


結構な数の開発途上国にそれなりの期間滞在してみて、さらには住んでみて、それぞれの国の生活のハードシップ、困難さについて考えることがあります。

そりゃね、アフリカは大変だった。インドも大変だった。東南アジアの某国も、街から離れたところは大変だった。

それで今、太平洋の島に長居しているんですけど、で、ここは一人当たりGDPとかそういう指標で見ると割と開発水準の高い国ということになっているんですけど、でもまたアフリカやインドとは別の生活の厳しさがあるなと。

そう感じる最大の原因は、なんといっても人が少ないこと。今のこの島の人口は3万数千人。この程度の人口だと、ちょっと凝ったサービスや商品はマーケットが小さ過ぎて商売として成立しないので、入手困難になっちゃう。

病院はある。最低限の内科医、外科医くらいはいそう。でも、専門医はいない。X線写真は撮れるけど内視鏡は無理。メガネもたぶん作れないし、歯科医もまともなのはいない。

服や靴の選択肢はない。あるもの、サイズの合うものを買うしかない。

決まりきった食べものしかない。現地の人が好んで食べるもの以外は、希少だったり入手できなかったり。

あらゆるものの選択肢が限られる。食品、電化製品、車、文具や工具、食器や生活雑貨、家具や寝具、みんなあることはあるんだけど、「えー、これだけ?」っていう中から選ぶしかない。もしくは2、3か月はかかる海外からのお取り寄せになる。それもかなり割高の。

死にはしないんだけど、生活の質はかなり悪い。いや、事故や怪我、心筋梗塞や脳梗塞だと救急治療は怪しくて、日本だと助かるものも、ここだとやばいな。

ところが、島の人たちの平均的な金銭収入はそんなに低くない。なので、貧困国とはみなされない。生まれながらにこの島の人はそれが当たり前なので、不便なんかそんなに感じてない様子。

たとえ開発途上国でも、人口が多ければ一定の中間層や富裕層がいて、また外国人のコミュニティもそれなりの規模があって、首都ではそれなりのサービスが揃ったりするものです。ガーナのアクラにだって寿司屋はあるし、ジンバブエのハラレにだってフライドチキンやハンバーガーのチェーン店はある。

それが人口3万人で孤立している島だと市場が成立しないので、日本みたいな消費者が王様の国から来ると、とんでもなくクオリティ・オブ・ライフの低いところになっちゃう。

ノーベル経済学賞を受賞したアマーティア・セン博士は、「豊かさとは選択肢があること」と喝破したそうだけど、まさにそう。このセン博士のいう意味で、島は貧しい。お金は持っていても。

人口3万人の島には大学もない。若い人たちにとっては、島でなんとなく生きててもそれなりに楽しくは暮らしていけるんだろうけど、人生の選択肢が少ない。結果、若い人たちは就学と就労のために、また大人も子供も病気になれば治療のために島を出てしまうので、元々人口が少ないのにさらに人口流出が起きていることが問題となってしまってます。

May 20, 2023

海外暮らしと日本の暮らし


24歳まで九州の地元から引っ越したことがなかったけど、就職して上京したら日本人に馴染みの薄いマイナーな国への出張を繰り返すようになり、30歳を過ぎた頃に最初の海外赴任。中東。

赴任を終えて帰国するも転職を繰り返し、やがてアフリカ赴任の話をもらってそこで5年。

いい加減、転職は難しい年齢になってしまったけど、今は訳あって南洋の島暮らし。

とはいえ、年に1回くらいは帰国し、東京と地元九州でしばらく過ごすという休暇を取っています。今回も約1か月の一時帰国。この時ばかりと日本の友人知人たちに会い、食べたいものを食べています。

人生のいい時期をかなりの間、変な途上国で過ごしてしまい、東京や地元のよさを十分に味わえなかった一抹の後悔を、一時帰国のときに感じます。それを埋め合わせるかのような1か月です。

しかし後悔はするかもしれないけど、後悔をするのも、海外に出て日本の良さを知ったからなんですよね。

時間には限りはあって、ずっと日本で暮らし続けることと、海外暮らしをすることの両方を満たすことはできなかったのです。これでよかったとしか言えない。「ずっと日本で生活するという選択肢もあったよな」と思うのは、後悔とさえ言えない、郷愁や懐古に近いのかも。

時間、エネルギー、若さ。限られた資源をどう使うか。トレードオフ。

年を重ねるということは、限られた資源をどこに使い、ありえた選択肢の何を捨てるかを決め続けることだったのでした。